駒場寮廃寮の経緯
東大駒場寮の廃寮が発表されてから10年もの間、学部と学生自治会で話し合いがおこなわれ、決着には難航を極めました。そもそも、駒場寮廃業に至るまでにどのような経緯があったのでしょうか。
そもそも、駒場寮廃寮の話が出たのは、91年の東大教育学部の評議会においてでした。駒場寮廃寮の理由は幾つかありますが、三鷹寮と駒場寮の老朽化や留学生の急増を挙げることができます。さらに、当時の三鷹寮にはあまり人が住んでおらず、また三鷹キャンパスが手狭になったことも挙げることができます。そこでこの評議会において、三鷹寮の敷地に留学生と学生が共に住むことができる学生宿舎を建設することが決まりました。この時の三鷹寮の基本構想は、1千人の収容能力がある、外国人留学生と学生が混住する国際学生宿舎でした。それにともない、事実上三鷹寮と駒場寮の廃寮が決定しました。
しかしこの時から一部の学生の間で反対運動が起こり始めました。それで、教育学部によりアンケートが実施され、学生の強い反対があるならば計画中止もあり得る状態でした。しかし、結果として7割以上が計画推進に賛成というものでした。これに対し、学生自治会は駒場寮存続を訴えましたが、その要求は受け入れられませんでした。
結局、三鷹国際学生宿舎は完成し93年には一部が入居可能になりました。各部屋は約8畳ほどの個室で、ユニットバスやエアコンが整備されています。現在でも1千人ほどが居住しています。
さらに駒場寮跡地にも、スポーツ施設や国際会館等をふくむキャンパスの建設が計画されました。しかしそのころから、反対運動が活発化しました。その後、駒場寮委員会等によって反対意見がたびたび提出され、学部との話し合いが行われましたが、決着はつかずストライキが決行されることもありました。
後の97年にはついに、国によって寮内の学生と自治会を相手取り東京地裁に訴えが提出されました。結局は、法廷は自治会の主張を退け、寮生に対して明け渡しを要求しました。
その結果学部側の勝利が決定し、2001年8月22日に強制退去が執行されました。この時には混乱もなく、予定通りに学生は全員退去しました。